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本堂道円・妙円の墓久遠の松田中城主等の墓田中城主等の墓の説明相良城御殿の一部

大慶寺の壺どころ

日蓮聖人お立ち寄り霊場
750年前、日蓮聖人は京都比叡山遊学の折り当地を訪れ、茶店を営んでいた道円、妙円の両夫婦を説法教化されました。その後、夫婦は自宅裏に法華堂を建立して当山の基を開きました。(鎌倉時代、建長五年初春)
円妙山 大慶寺
円妙山の山号は道円、妙円両夫婦の法号より頂き、法華経流布の大慶にちなんで寺号を大慶寺としました。
天然記念物「久遠の松」
静岡県の天然記念物。「久遠の松」と命名され境内に今も見事な枝を張っています。
田中城祈願寺
 田中城はその昔、今川家の居城として築かれ、後に武田信玄が駿河に攻め入って田中城を手中に収め、武田流の築城法で3ケ月堀6ヶ所を構築しました。その後、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康等、戦国の武将がこの城をめぐって攻防を展開し、特に家康は8年かかって漸く城を落とし入れました。亀の型をした平城で駿府城の出城として堅固な要塞でした。
 徳川時代に入り城主が順次任命され、明治元年まで12氏21名の城主が在城しました。大慶寺は田中城祈願寺として認知されていました。これらの中で当寺と最も関係深かったのは10代、11代と城主をつとめた太田摂津守資直、資晴父子です。資直公は太田道灌の子孫で、浜松城主から田中城主となって5萬石を領しました。宝永2年(1705年)1月2日資直公逝去の折、当寺へ納牌、菩提寺と定めました。資直の子、資晴は後、奥州棚倉へ転封され、その子孫が掛川城に移り、明治元年まで城主をつとめました。田中城最後の城主本多氏の頃には家老の大半が当寺の檀家でしたので、いつの間にか「さむらい寺」と呼ばれるようになりました。
相良城御殿移築(田沼意次公御殿)
一方、現在の大慶寺の客殿は、老中、田沼意次(相良城主)の御殿を移築したものです。。
 天明6年(1786年)、田沼意次が失脚したため相良城が解体されることになりました。その御殿があまりに立派なため、壊すのはもったいないと払い下げられました。当時のお金で700両。相良から藤枝の地に運び再建されました。今なお太い柱や桁、見事な欄間の彫刻は黒光りを放っていて、豪壮な城郭御殿建築がそのまま残っています。
 700余年の歴史には紆余曲折があります。例えば明治初年の頃、徳川慶喜公が駿府にやって来たのに合わせて、明治政府は藤枝の田中城主を今の千葉県館山市にお国替えさせました。そのため、藩士も城主と共に館山市に移動しました。従って現在では藤枝に住む田中藩士の家系はほとんどありません。一晩で、檀家の殆どが館山市に行ってしまったわけですから、当時寺を維持するのに大苦労しました。
 寺に限らず、どんな世界でも山あり谷あり、その中のどこかに自分が存在します。山の次は谷、谷の次は山が来ると考え、長い歴史の一こまを演じましょう。